国際社会で生きていくということ

【海外生活】国際社会で生きていくということ:ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー。を読んで

日本の書籍から少し遠のいていたこの頃、中田敦彦さんのYoutube大学で当本が紹介されていた「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー – ブレイディみかこ

通常書籍紹介の動画は見ないのだけれど、何と言ってもキャッチーなタイトルなのでちょっと見てみること5分と経たないうちにamazonで電子版を購入していた。

作者、ブレイディみかこさんの息子が平和学校から元底辺学校へ自ら望んで進学する中で体験、目の当たりにした差別やいじめ、貧困、エンパシーなどについて11歳の視点から思いを母の視点から綴っていくという内容のエッセイ。

読んでいて感心してしまったのが、筆者と息子の親子関係。2人のやりとりがとても自然で、筆者のうまく距離をとりながらも息子が遭遇する小さなマイルストーンにしっかり寄り添っているみかこさんにとても好感を持った。ティーンって心も身体も劇的に変化を遂げるものすごく繊細な時期なのは身を以て経験済みで、彼らの親の悩ましさは想像に足る。きっと親たちは薄れつつある自分の思春期を振り返りながら子育てに励むんだろうけれど、みかこさんと同じ様に子供の成長に俯瞰の目を持って我が子に接することができるかと考えると、正直あまり自信がない。(きっと干渉し過ぎて距離を取られそうだ)

エピソードの中でイギリスの社会問題や国際社会に生きると目の当たりにすることになる貧富の差をうまく描写している点もリアルで、特に日本語訳がうまく見つからないsympathyとempathyの違いやpolitical correctnessも説明されていて頷ける箇所が多々あった。様々な人種がお互いを尊重しながら共存していく社会ではタブーになる言葉の地雷だらけという表現に思い当たる節がありすぎて実を言うと新米移民の私はまだそこらへんの感覚をうまく体得できていない。例えば以前、「栗毛と黒毛のリスでは栗毛の方がどこか品が良く見えるのはディズニーや他のアニメで黒毛のリスを見たことがないからかな?(カナダにはそこら中に野生でリスがいるんだけれど、アニメや絵本で見る栗毛のリスの他に黒毛のリスも結構いる。というより黒毛が主流。)黒い方はなんか(毒持ってそうで)ちょっと怖い」と何気なく旦那さんに話した時に、

「それって大きな声で言っちゃいけないことだと思う」

と返されてハッとしたことを思い出した。彼はどうやら私が黒人さんを揶揄したと思ったらしい。私としては欧米社会において自分が感じる栗毛(西洋人)に比べた黒髪(東洋人)の容姿に関する劣等感みたいなものをリスにも見たような気がしたということを言いたかったのだけれども、最近起きたblack lives matterでもわかる通り、スキンカラーはセンシティブなトピックで、黒と言うとまぁそっちを連想するのか、言葉には気をつけなきゃなと思った。

それからもう十何年も前の話になるけれど、昔地元で友達になったアメリカ人の友達はどこに行ってもジロジロ見られることを不快に思うとちょいちょいこぼしていた。それもこの本の中の息子が日本帰省中にハーフであることを珍しがられて変に注目を集めたり、「ガイジン」と呼ばれる事に不快感を抱くというエピソードと重なった。あの時へーとしか思わなかった事が今になってしっかりと理解できるようになったのだから、学びって一生続くものなのだなあ。

そんなこんなで2時間ほどで本を読み終え、一息ついてぼうっと他の人がこの本にどのような感想を持ったのだろうと考えていた。ハーフ(これもpolitical correctnessではタブー用語とされるらしい)としてアイデンティティを築く難しさだったり、色んな人種が共存する社会における差別やいじめ、それから子育ての複雑さだったりなのだろうか。

私の率直な感想は「これ、日本が本当の意味で国際社会になった時、差別発生しないなんて言い難いよなー」だった。今唐突に「日本人以外の人が周りにいても差別しないという自信がありますか?」と聞かれて正直に「それはわからない」と答える人はどれくらいいるだろう。

私の住むトロントは人種のモザイクと呼ばれているほど多様な人種が一緒に生活をしている。政府が積極的に移民を受け入れているからだ。2016年の統計によるとトロントの人口の半分は移民で、全体の20%は貧困に苦しんでいるらしい。


この数字は実生活の中でも十分に実感できるもので、例えば、私の住んでいるコンドから歩いて1ブロックもしない通りにはホームレスが点々と道に座り込み、物乞いをしている。そして貧困と治安は互いに影響し合っているからか、日本に比べれば治安は悪い。発砲事件だって起きるし、2年前にマリファナが合法になってからは大通りでも公園でも大麻の匂いがプンプンする。ホームレスの中には精神疾患のある人も多く、ゾンビのようにブツブツものを言いながら歩いている人もいれば、大声で汚い言葉を叫びながら徘徊する人、さらには人に危害を加える人もいる。(以前信号待ちで精神疾患をもつ人と待ち合わせになった時、後ろからタックルされ、危うく車にひかれかかったことがある)最近心理学で学んだ薬物中毒の知識を借りて言えば、精神病とドラッグはトーストとバターくらい一体となっている問題で、彼らの行動パターンを見ても多くは違法ドラッグを乱用しているのかもしれないと思った。その深層には必ずと言っていいほど貧困や、失業、社会的/家庭的問題などのこれまた複雑な事情が絡んでいる。ホームレスを避ける、嫌うというのは自然な反応だと思うけれど、どれだけの人がそのバックグラウンドまでに思いを巡らすのだろう。

日本がもしカナダと同じような移民政策をはじめて人種の多様化を見せ始め、そのことで私たちの大好きで誇りに思っている日本文化が少しづつ変わっていく姿を目の当たりにしたとき、私たちはいわゆる”外国人”たちを邪険に思うようにならないか?例えば就職市場が移民売り手に大きく傾いて低所得層の日本人失業率が上がったら。例えばそれが原因で貧富の差が拡大して街にホームレスが溢れるようになったら。例えばそれが原因で日本全体の治安が少し悪くなったら。そういう不満が差別に発展しないとは私は断言できない。

だから差別があって仕方がないと人種至上主義の人を擁護しているわけではなくて、この本を読んで、ただのイギリスで起きた移民日本人とそのハーフの息子の話に留まらず、いつか日本でも起こりうる深刻な問題と受け止め、私たちは大丈夫と思っている気持ちに少しでも疑問った人が多いことがこの本が売れている理由であってほしいなと思った。

さて、最後に私たちがどの様に差別やいじめ問題に対峙していくかだけれど、関心を持つことが重要だなと思う。みかこさんが息子にアドバイスしたように「無知」が負の意味で諸問題に貢献しているのは間違いない。

保育士として親を見て、親の真似をしながら人格を形成していく子供たちを見て、教育って子供へだけ向けられた言葉ではないといつもお思う。親は親で大人だから知っていると自負するのではなくて、自分の無知さに疑問を持ちながら子供のお手本になっていかなければいけないのだ。問題の表面だけで物事を判断せずに、その深層まで知ろうとする貪欲さが大人の課題と言うか、教育ではないかと思う。

私もきっと近い将来子供を持つ事になる(はず)。台湾生まれ、カナダ育ちの父と日本人の母をもつ事になる私の子供はどんなnational identityに悩む日が来るのだろうか。それともネイティブ国際人としてあるがままを受け入れ、私の遺伝子からは考えられないほどの柔軟性が私を驚かせる事になるのだろうか。

いずれにしてもその多くは私と旦那にかかっている気がする。

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